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あしあと

    よくある質問

    伊賀地方に於ける祇園祭の由来について【2015年6月更新】

    • [公開日:2017年1月26日]
    • [更新日:2017年1月26日]
    • ID:271

    毎年8月1日は市内では、阿山、三田、小田の神社で祇園祭が昔から行われております。この祭礼行事はいつごろから行われているかということと、団扇を取るという由来などを解かる範囲でお教えください。

    回答

    <団扇を取る由来>
    『上野市史 民俗編』には以下のようにあります。
    『人々は疫病という目に見えない存在を荒ぶる神として恐れ、同時にこれを祀ることでその災厄から逃れようとした。京都市中の祇園祭では「蘇民将来之子孫也」と書かれたちまきが山鉾より投げられ、人々はこれを競って奪い合い、獲得したものは疫神除けとして家の門口などに飾られる。
    祇園祭において何かを奪い取り、これを厄除けの護符とする事例は、実は滋賀県の甲賀地方や上野市を含む伊賀地方にも見られるのだが、こちらの争奪の対象は赤い花か、もしくは団扇となっているところにその特徴がある。』
    『花や団扇の作り物は本源的には疫病神を赤い花で威嚇し、団扇で扇ぎだし、村外へ追放するところに意味があった。虫送りの行事と同じ考えである。ところが花や団扇に疫病神を憑依させ、神社へ運んで祭りをして鎮魂し、疫病神としての性格を弱め、この弱った神を家で祀ることにより、かえってその家に病魔が近づかないとする信仰になった。疫病神も祀れば祟らないとする考えである。花蓋を激しくたたいて破壊する行為は、古い時代の疫病神に対する恐怖心を象徴づけるものである。一方、花や団扇を奪い合い、獲得する行為は鎮魂された疫病神を確保し、我が家で祀るための前提行為であろう。棄てる行為と祀ろうとする行為が並存して展開している。』
    『祇園祭における花や団扇の争奪といった民俗の濃密な分布は、伊賀や甲賀地域に特有の事例と見られることから、この一帯が独自にひとつの祇園信仰圏を形成していったものとも考えられている』

    <伊賀の祇園祭はいつ頃から行われているか>
    伊賀地域の祇園祭の由来に関しては、古い文献が少ないため不明な点が多く、陽夫多神社に伝わる安政四年(1857)の『願之山文書』には、「文禄年中(1592~1596)より相始り」という記載があります。また、江戸時代初期に成立したとされる『伊水温故』にも「例年六月十四日に祇園会有り・・」と記載されています。さらには関連が注目される大原祇園祭が十六世紀末まで起源が遡れる可能性があること等から、かなり早い時期にその起源を推察することができます。
    (参考文献:『三重県史 民俗編』『三重県の民俗芸能』)

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